表現者として
尾張旭市のピアノ教室Allabreveです。
短期ピアノ教室、ご好評いただいております。
引き続き随時受け付けておりますのでお気軽にお問い合わせくださいね。
最近2冊の本と一枚CDのから大きな影響を受けました。
「羊と鋼の森」、「マチネの終わりに」という本をご存知ですか?
両方とも映画化される(ミーハーなので)、音楽系のお話です。ピアノ調律師とギタリストのお話ですが、影響されることがたくさんありました。ネタバレできないので内容は伏せておきますね。
美しい文章そのものに色がついているような作品たちでした。
また、私がお世話になっている調律師さんがなんとデイレクターを務めたCD,
「わたしが一番きれいだったころ」。
こちらは日本の詩に着目した歌とピアノのアルバムです。言葉も音も直接的で刺激的なのですが、どこか温かみと強さを感じさせます。
なんだかいろいろ影響されてきました。
なんだか、ぐるぐる、頭が回ってきました。
実はしばらく前から、私は何者なのだろう?表現者か教育者か?葛藤していました。
やはり日々の仕事の中で私は教育者である時間が長くなります。
それは望んでしていることだし、生活の軸でもあります。そして楽しい!
でもどこか深さが足りないような気がしていました。
表現者としての私は自信もないし、私でなくても、もっとうまい人はたくさんいるし、と
いわゆるスランプに陥っていました。
ストイックな練習や過敏になりすぎる感覚も持て余していました。
でも、それがないと生きている実感がありません。背筋も伸びません。何かが抜け落ちたような時間が過ぎていきます。
3つの刺激物に触れて、まず、気が付いたのは、ああ、考える時間をもっと大事にしようということでした。
日々の生活に追われ、やることがたくさん。楽しむこともたくさん。大変なこともたくさん。
ただ、起きている現象それだけでなくてもっとひとつのことについて深く知的に考える。そんな時間の取り方が今の私には不足していたんだと思います。一人の時間をもっと深みのある有意義なものにしようと思いました。
そして、表現者か教育者かという問題ですが、これは何度考えても、同じところに戻ってきてしまいました。表現者である私でないと、音楽で自分を表現することを教えられる教育者にもなれない、が結論です。
結局、二足の草鞋を履くわけです。
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